みなさん、こんにちは。Junです。5月のある日、骨髄バンクの骨髄採取の手術が行われ、無事退院できました。スッキリしました。^^
手術は人生初めてのことでした。入院2日目の朝9時ごろ、病室から手術室まで歩いて行きました。担当の女医の先生から「不安ですよね」と聞かれました。ぼくは「いいえ、楽しみです」と答えました。先生は驚いた様子で、「楽しみなんですか」と。ぼくは「こんなこと滅多にあることじゃないですからね」と言いつつも、すべては患者さんのためでした。
手術室ってこんな感じなのかと余韻に浸る間もなく、手術台の脇の台に仰向けであがりました。今日の手術って、うつ伏せでするんじゃなかったっけと思いながらも、指示にしたがいました。そして酸素マスクをかぶされました。もうすぐで麻酔かけられるのかあと、わくわく待ちました。麻酔といえば、数字数えさせられながら知らず知らずのうちに眠りに落ちるんだろうと、期待していました。ところが、酸素マスクをかぶって30秒もしないうちに、もう意識がありませんでした。
次に目が覚めた瞬間、ぼくは真っ暗な部屋の中にいました。耳元からザーという音が聞こえてきました。え?今どこにいるんだ?ときょろきょろ見まわして、そこが病室であることに気づきました。時間は昼の12時半を回ってました。ほんとあっという間でした。不安とか緊張とかそんな感情を持つ間はまったくありませんでした。
ぼくにとっては瞬間的な出来事のように思えてなりませんでした。病室に戻っているということは、手術は終わったということなんだあ!やったー!と喜ぶのもつかの間、ぼく身体にある異変が起きてました。
担当の看護師さんが病室に入ってきて、「体の具合はいかがですか」と聞いてきました。ぼくは「大丈夫です」と答えようとしたのですが、なんと声がつぶれてました。これは手術の際、喉に管が入るからです。また麻酔が抜けてきた腰にも痛みが出てきました。腰痛というほどのひどい痛みではなく、疲労のような痛みでした。そして、これが極めつけでした。
尿道カテーテル、これは違和感でしかありませんでした。くすぐったいんだか、かゆいんだか、とにかく変な感じでした。事前に担当医に話せばやらないという手もあったのですが、こんな機会はまたとないことだろうと、興味津々でやってしまいました。というか自分的にはやられてしまったーという感じでした。
時々、排尿を回収に来る看護師さんには申し訳なかったです。看護師さんたちにとっては慣れていることとはいえ、健康そのもののぼくにこんなことをさせてしまっていることが恥ずかしかったです。貴重な経験になりました。
で、手術のあった日は絶食で、栄養は点滴でした。しばらくして、骨髄バンクのコーディネーターさんが入ってきて、「お疲れ様でした」と、患者さん側の病院のスタッフがぼくの骨髄エキスを持って、新幹線で行かれたようですよ。と伝えてくれました。よかった、よかった。ちゃんと渡ってくれれば、もう十分です。^^
夕方には妻がお見舞いに来てくれました。赤ちゃんを妻一人に任せてしまってることが、申し訳なく、「ごめんね」と謝ったのですが、妻は「お疲れ様、手術が無事終わってよかったね」と、患者さんのほうに骨髄が渡っていったことを素直に喜んでいました。
その日は、まったく身動きできませんでした。動くと腰が痛いんですよ。
次の日の朝早く、担当の女医の先生と看護師さんが尿道カテーテルを外しにやってきました。お二人にとってはおそらく慣れていることでしょうけど、ぼくは生まれたばかりの赤ん坊のようにじっとしているしかありませんでした。こともあろうか、そのときぼくは〇〇〇〇してました。どうしたらいいの?誰か教えて!と訴えたい気持ちでしたが、お二人に見守られながらカテーテルが外されたときのあの感触は、格別でした。
妻にこの日のことをあとで話したら、「変態か?」と言われました。
カテーテルが外されたら、もう普通の人と変わりはありませんでした。自由に身動きできることはありがたいことです。この日はとにかくたくさん時間があったので、患者さんにメッセージを書くことにしました。が、何を書いていいのかわからず、結局たくさん書きながらもうまくまとまりませんでした。なんてこったい。
そんなこの記事を書いてるある日、ぼくよりも先に患者さんのほうからのメッセージが届いてしまいました。ありゃま、先を越されてしまいました。
メッセージの内容を簡単に要約すると、無事骨髄移植が終わって、感謝の気持ちでいっぱいということでした。あーほんとよかった、よかった。^^患者さんの手術の経過については何も知らされていないので、どうなっただろうと心配ではありました。どうか無事に回復して、普通の生活ができるよう願うばかりです。
ドナーの通知をもらってから骨髄採取の手術まで、約3カ月も期間があるのですが、その時間というのはぼくにとっても患者さんにとっても、短いようでいてとても長いものだったと思います。ぼくにとってはとても長く感じられました。
一刻も早く助けてあげたいと思いながらも、お互いの体の調整のため、簡単にしてあげられないじれったさが確かにありました。ドナーであるぼくが期間中に病気をしたり、ケガをしたりしてしまった場合、ぼくの骨髄は使えず、次に待つ第2のドナーに移ってしまうこともありうることだったからです。
でも、果たして第2のドナーは存在していたのかどうか。すべてはプライバシーで隠されているため、何も分からないんですけどね。この期間中、難病をお持ちの数名の方から、メッセージをいただきました。そこには、ドナーはなかなか現れないという厳しい現実があるそうなんです。
また、コーディネーターから聞いたのですが、骨髄バンクの登録をして、実際ドナーの通知をもらっても、拒否する人はいるということです。それは本人はやる気満々でも、家族の反対があってできないということもあるそうです。
反対する理由というのは、身体を痛めるリスクを負ってまで、他人を助ける必要などないということが多いそうです。
手術をすれば、確かに自分の腰を痛めるリスクを負います。喉も傷めます。でも、ぼくはそういうリスクを負ってでも、見知らぬ患者さんを助けてあげたい気持ちでいっぱいでした。腰や喉は手術終了後は確かに痛かったです。でも、ほとんど気になりませんでした。
なぜなら手術が無事終わったことにすごくホッとしてましたから。患者さんを助けてあげられるんだという気持ちでいっぱいでしたから、自分の体の異変は貴重な経験ということで整理できました。^^
退院した次の日ぐらいには腰も喉もほとんど気にならないぐらい回復してました。
そんなぼくなんかより、患者さんのほうは何倍も何十倍もつらく悲しい日々を過ごしているんだろうと思います。どんな痛さなのか、どんな辛さなのか見当もつきませんが、そんな苦しい日々の中で必死に前を見ながら、闘病生活を続けているんでしょうね。
いつドナーが現れるのか分からない不安の日々、ドナーがやっと見つかって喜びの日々、そんな喜んで待っているかもしれない患者さんをどん底に突き落とすようなことだけは決してしてはいけないので、ケガや病気にはけっこう気を遣いました。ふーっ
またこの期間は、赤ちゃんが誕生して間もない頃でした。まだ赤ちゃんなので、ぼくが何をしてたとかまったく知る由もないと思うんですが、父親としての姿をちょびっとでも残せたかなあ、まったく残せてないでしょうけどね。
退院する日、担当の看護師さんがK-POP好きだと話していたので、ぼくのブログをちゃっかり番宣しました。東方神起とBIGBANGが大好きらしく、東方神起の分裂は残念だよねとか話しました。またその看護師さんはキムヒョンジュンのファンらしく、彼の歌ありますか。と聞いてきました。ぼくはあれだよね、CNBLUEのボーカルの人でしょ。あーそーそー。と、退院したあとに気付いたのですが、キムヒョンジュンはCNBLUEじゃないですね。SS501(ダブルエスごーまるいち)のボーカルですよ。CNBLUEはチョンヨンファでした。看護師さん、ごめんごめん。^^
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
キムヒョンジュンについてまとめ
↑2008年 ウギョルの頃・・・。
2010.12.07
キム・ヒョンジュンがペ・ヨンジュンとともに
「ドリームハイ」に友情出演する。
2010.12.12
ペ・ヨンジュンとキム・ヒョンジュン羽田空港到着
緊張気味のリダ~^^
2010.12.14 東京ドームで、
DATV「Message! to Asia」の公開収録
投稿者
DATV「Message! to Asia」
フォトセッション
2013・10.19
韓流10周年アワード授賞式
フォトセッション
2013・10・20 KHJ Premium Live Tonight
KHJがBYJを語っています。
BYJがKHJを語っています
投稿者
入隊の時も~
BYJの子ども10月で1歳、二子も懐妊。
リダの子どもはもうすぐ2歳・・・。
しつこいけど、これを~↓
キムヒョンジュン限定品ショップ
PR
コメント